2022-11-17 即興/メタ視線
今日は音楽家抜き、ダンサーだけでリハーサル。
発案者である音楽家はドラマーなのだけれど彼が見たいビジョンを描く前にそもそも渡された基本リズムが体に入らなくて、みんな途中から拍を失ってしまう(他の音楽家ですら迷子になっていた)。その状態で即興をしてもただの規則のない自由な即興にしかならず、それでは発案者の狙いとは違うものになってもったいないよね、ということで集合したのだった。
私はひとりで踊ることが多いこともあって即興にはかなり慣れている方だとは思うけれど、他のダンサーがいるときには空間全体や時間を成り立たせる役割にまわることが多い。もちろん自分が舞台上のひとつの要素として立ちながら、ではあるのだけれど、それでもあまり対等な感じで舞台に立てないと感じることが多い。見えていない人の分まで全体を見て、場や瞬間を完成させる役割をしようとする(じゃないと崩壊するので)。
実は即興ができる人はすごく少ない。それなのに即興は簡単だと思われている。決まりなく動けるし自由だから振付作品よりも楽と思われることが多い。音楽の即興のように自由とはいえ和音や旋律からは逃れられないものと違ってまったくノールールでもできるでしょ、と言われたらそういう意味では確かにそうなのだが、だからこそ本当の意味で成り立たせるのが難しく、即興で踊って成り立たっている舞台を私はほとんど見たことがない。
舞台上にいかに居ることができるか、どういう視点を持って瞬間に対応しているか、いかに変化に細かく耳を澄ませているか…下手したら振付作品よりも何倍もそのあたりの技量を問われる。
しかし困ったことに即興ができない人ほど即興は簡単だと思い込んでいる。即興の難しさは即興ができる人にしか体感できないものだからだ。
今回はそれぞれが全く対等に存在すべきだし、しかも音楽のリズムに即した絵を見たいという固定された要望があるから、果たしてどうやって作ってゆくかな、と思案している。
興味があるので他のダンサーと仕事をするときには「複数のダンサーで即興作品をつくる場合、あなたはどうやってクリエイションを進めるか」ということを聞いてみる。今回も聞いてみた。…でもちょっとうまく聞き取れなかったから、また機会があったら再度聞いてみよう。
今日はとにかくドラマーの提案した定形リズムを口ずさみながらまずは簡単な決まりごとの中でただ歩く、そしてだんだんハーモニーを崩してゆく、ということをしていった。簡単でシンプルだけどそういう風に始めるのが一番良いと思っていたから、他のダンサーも同じ考えだったことにちょっとだけほっとする。即興なんだからとひたすら当てずっぽうに踊ってみてなんとなく自己満足して終わるリハーサルは最悪だから。
色んなリハーサルに行ってみていつも思うのは、みんなあまり動画を撮らないなーということ。振りを覚えるために動画を撮る人はいるけれど、稽古を撮って見返すということをしないダンサーが多い。踊っている自分たちのことは決して客観的に見ることはできない。想像しているものとは違うものに仕上がっているから修正しなければならないし、また予想外の面白みを発見したりもする。狙いにたいしてふんわりと的が外れていたり、甘さに気づいたりする。感覚だけでは、想像だけでは辿り着けない。目で見ないと。
もちろん演出家が別にいて指示をくれるなら客観的に見なくてもいいのかもしれないけれど、でも色んなヒントが転がっているから撮るといいと思う。
自分が何をしているかを知る。
そこに自分は何を見たいかを重ねてみる。
そのように見えてくるか、何度も動画を撮って確認してみる。
欲しいと思っていた瞬間が、実は必要ないと気づくこともある。
しつこく重ねないと浮き出てこないこともあるが、途中他の絵が見えてきたら、固執しすぎず解体する。
それをしつこくやれば、本番はすべて忘れて瞬間に集中すればいい。